藤子不二雄の別れた@摎R
2011-03-06


小学生のころ、漫画家志望の少年だった。
一番好きだったのは藤子不二雄の「怪物くん」。

BShiの「100年インタビュー」という番組に藤子不二雄Aが出ていた。

子どものころ、藤子不二雄は2人の人間だともちろん知っていた。
それぞれの本名も知っていた。
しかし、1つの漫画をどうやって2人で描くのか不思議だった。
紙をやりとりして交互に描くのだろうか、とか想像をたくましくしたものだ。
しかし不思議ではあっても、それが藤子不二雄だった。

だから、藤子不二雄がAとFに別れたときはショックだった。
そんなのは藤子不二雄じゃない、と思った。子どもの夢を壊されたと。

番組によると、AとFになったのは1987年のことだったという。
私はもうとっくに漫画を読まなくなっていた。
それでも、藤子不二雄が2つになったのはイヤだったのだ。

ビートルズが解散して、レノン=マッカートニー名義の曲の数々があれはジョンの曲、あれはポールの曲と明かされたときと同等のショックだった。

しかし、時間がたって、種明かしも楽しめるようになった。

だから、私が最も好きだった「怪物くん」を描いた藤子不二雄A(この言い方は今でも抵抗があるが)のインタビューも見ようという気になった。

前置きが長くなったが、その1987年のコンビ解消についても話が出た。
本人によると、その真相≠ヘこうだ。

完全な合作は「おばけのQ太郎」が最後で、お互い全くノータッチで何十年も来たから、55になって、もうそろそろこの辺で「別れる」んじゃなくて、お互い「独立する」と。「55の独立」って、かっこいいじゃないかということだった。

インタビュアーのアナウンサーがここでさらに突っ込んでくれた。
「2人の違いとはどういうものだったのか」
それには―。

藤本氏は20代、30代、40代、50代になっても「ドラえもん」が描けた。しかし僕(我孫子)は30代までは「ハットリくん」「怪物くん」いわゆる子供漫画が描けたが、酒やゴルフが好きなこともあって、だんだん子供漫画を描くのがつらくなってきた。そのころたまたま青年コミックが出てきて、「黒イせえるすまん」を描いた。そしてこの線があるじゃないか、という新しい発見をして、そっちに行った。だから、ファンからは藤本氏は「白い藤子」、僕は「黒い藤子」と、そういう分け方をされていたようだ。

なるほど。
互いの作品に全く干渉しなかったそうだが、それだけに路線の違いはのっぴきならないところまでいっていたようだ。
長年のつかえが下りた。
[E t cetera]

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