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斉明天皇は天智・天武天皇の母で、それ以外にはあまり言及されないようだ。詳しく知りたいと思っても、適当な本が見当たらない。
しかし、かなり偉大な天皇であったと思われる。
というのも高麗、百済、新羅がこぞって服属しているからだ。
そして斉明6年(660年)10月、百済が唐の捕虜100人を献上して救援を請うてくる。斉明天皇はすぐに決断、12月には難波宮で軍備を整え、翌年正月6日、68歳の天皇自ら難波津を出航し、筑紫に向かった。
船には中大兄皇子(天智)や大海人皇子(天武)も同乗していた。
途中、伊予の熟田津(にきたつ、愛媛県道後温泉あたり)で、約70日間疲れをいやす。
そして再び出帆するとき額田王が詠んだのがこの歌。
熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
(熟田津から船出をしようと月の出を待っていると、待ち望んでいたとおり、月も出、潮の流れもちょうどよい具合になった。さあ、今こそ漕ぎ出そうぞ。)〜伊藤博『萬葉集釈注1』(集英社文庫)
船は3月25日、現在の博多港に到着し、その後、斉明天皇は「筑紫の朝倉の宮」に移る。しかし、7月24日、天皇は朝倉宮で崩御する。まさに朝鮮のためにご老体を犠牲になさったわけだ。昔から日本に頼って迷惑ばかりかける国だ。
朝倉宮は正式には「朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)」と言って、福岡県朝倉市須川にその跡と記した碑が建っており、そこには以前行ったことがある。
斉明天皇の陵墓は奈良県高市郡明日香村にある牽牛子塚(けんごしづか)古墳で、三段、八角形の特徴的な形状をしている。
全体を白い凝灰岩で装飾していた当時の姿が再現され、今月公開されて話題になった。
斉明天皇のご遺骸が飛鳥に運ばれる前、いったん朝倉で葬儀が営まれた。
その場所は「朝倉橘広庭宮」ではない。
恵蘇八幡宮になっている場所だと知って行ってみた。
思った以上に素晴らしい神社だった。
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