今日のひとこと
2021-08-15


徳岡孝夫

内地を敵であるかのように罵る沖縄の運動家諸君は、牛島司令官、長参謀長の自決に心うたれたことはないのか。
沖縄を奪還するために、戦艦大和の乗組員たちは欣然、片道燃料で出撃したのではなかったか。第二艦隊司令長官・伊藤整一は、何のために生還の可能性ゼロの作戦に従容として出ていったのか。伊藤司令官の一人息子は、何のために父の艦を護衛して死んだのか。
本土決戦になっていれば、われわれも死ぬ覚悟だったのだ。互いに和解しようではないか。

〜『完本 紳士と淑女 1980-2009』(文春新書)


雑誌『諸君!』1982年11月号だ。
1987年10月号にもまた、こう書いている。
「沖縄の死者たちの生命も、また高い。だから沖縄本島南部の古戦場には記念碑が林立し、その中には悪趣味に近いものさえある。沖縄を守り切れなかった非力を恥じて自決した牛島司令官や長参謀長の生命は安い。だから誰も祈らない」

鹿児島市加治屋町の甲突河畔に、「沖縄軍司令官 牛島満大将生い立ちの碑」が建っている。
牛島満とはどういう人だったのか。山岡荘八『小説太平洋戦争』(講談社文庫)第8巻から引くのが最もふさわしい。

「この悲劇の第三十二軍を指揮して果てた牛島満中将は薩摩の出身で、大西郷の崇拝者であり、そのゆえに綽名もまた今西郷と呼ばれていたのだが、彼は自決後、帝国陸軍では最後の『陸軍大将』をおくられ、ここにゆくりなくも、皇軍の最初の陸軍大将であった大西郷と同じ薩州人として、その首尾を飾ることになったのもふしぎな因縁を想わせる。
私は戦後沖縄をたずねたおり、さまざまな人々から、牛島大将を思慕する回顧談を聞かされた。大将のことを口にする時、それらの人々はそのほとんどが眼を赤くして、高潔な人格と温容ににじむ徳を讃えた。おそらく大西郷の敬天愛人の至誠を師表として厳しくおのれを鍛えた武将であったのに違いない。そう云えば、自決の直前にも、長参謀長と、城山における大西郷の死について淡々と語り合っていたという……」

誰も祈らないのなら、6月23日の自決の日、甲突河畔の碑の前に行って祈ろうではないか。

今年7月10日、長参謀長の出身地、福岡県粕屋町で初めての慰霊祭が行われた。
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