林芙美子の文楽人形「お染」
2020-04-24


@facebookの楽文楽(らぶんらく)さんの投稿。

戦争が8月に終わった昭和20年、東京劇場での文楽「菅原伝授手習鑑」が反民主主義だとしてGHQより中止を余儀なくされる。松竹が経営していた文楽は昭和23年に会社派の「文楽因会」、組合側の「文楽三和会」に分裂。三和会は固定した小屋がなくなり、文楽協会が設立するまで旅回りが生きる糧となる。旅回りの話を簑助師匠や住大夫師匠より伺ったが、聞いてるだけで息苦しい程切なくなる。
昭和25年、新宿駅西口広場。三和会は東京へ。主遣いは桐竹紋十郎師匠、左遣いは先代の勘十郎師匠。
当代の勘十郎師匠も生まれる前の事。三和会ではトラックの荷台でも演ったようです、と。

A早稲田大学演劇博物館が所蔵する文楽人形の「お染」。

全長98.0cm近松半二の世話物「新版歌祭文」野崎村の段で用いられる、大店の娘・お染の人形。大江巳之助の焼印がある。品のある大江巳之助の作風は、理知的な芸が好まれるようになっていた近現代の文楽と合致するものであった。掲出資料は、2世桐竹紋十郎が、三和会時代の後援者に感謝の意を込めて贈ったもの。紋十郎は三和会の中でも人気のある実力者であり、リーダー的な役割も果していた。

B作家の林芙美子は桐竹紋十郎に「お染」の文楽人形を贈られている。

AとBは同じものなのか。
つまり、三和会時代の後援者とは林芙美子のことなのか。
[H ayashi Fumiko]

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